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第34回和僑会 テーマ:『波乱万丈の人生』
東洋警備(香港)会長 岩見武夫氏
2008年 2月22日(金)

岩見先生のお写真は何度と無く拝見しているがお会いするのは実は今回が初めて。

ご講演の前に会場に入ってこられたのを見た瞬間に頭の中で異変が起こった。
そして・・・
過去に何冊となく読んできた本の中で繰り返し使われていたひとつのフレーズが頭に浮かんで来た。(もっとも私の場合このフレーズをもっぱら“漫画”で見たような…)

「で、できる。」 「御主、只者ではないな!」

今まで人の力量を瞬時に判断するというものは見る目を鍛えた“達人”にしかできない芸当とばかり思っていた。しかし岩見先生の場合、この私でも一目でわかった。

和僑会のおかげで何人もの強烈なオーラを発する成功者の方々のお話を聞かせていただくチャンスが多い。しかしそういった先生の中には(意識してオーラをコントロールしているのかも知れないが、)座っている分には普通の人と見分けがつかないこともあった。
(単に自分に見る目がないだけ…!?)
しかし今回の岩見先生は一目瞭然。武道家ということも関係しているのだろうか?

ある成功者から最近教わったこと。
「頭で考えるからいけない!五感をフルに使い、六感を磨け!!」
以来、勤めて人の話は五感で聞くようにしている。岩見先生のお話はまさしく感性で聞くのにうってつけのお話だった。

パッと見で『只者ではない』とは。その感じを無理やりに言葉に置き換えると・・・。
「こういう感じの人は過去に成功してきたに決まっているし、これからも成功するに決まっている!」

しかし逆に言うとこの五感で感じたことを臨場感の伴った文章に落とし込むのは至難の業。

例えば、ある人は上の文の「只者ではない」から「殺気」までイメージしてしまったかもしれない。

しかし実際に岩見先生の私の第一印象は「気は優しくて力持ち。(間違っても敵にはしたくないが・・・)」人間的な温かみがある。
それだけではない。あれも、これも…。と、原稿用紙が何枚あっても表現できない。

議事録担当チームとして毎回同じようなことを書いているが参加して直にこの“気合”のこもったお話を聞くことが出来なかった人は折角の成功者を感じる機会を逃し本当に残念なことをしたと思う。まさしく半世紀前の香港から始まる波乱万丈の人生。

さてこの“感じ”を何と表現したらいいものや?

困り果てながらお話を聞いていると思わぬところから助け舟が。

それは、あのプロスキーヤーでもあり冒険家としても頂点をきわめた三浦雄一郎氏の一言。
岩見先生を見るなり「前途洋々だね。」
さすが頂点を極めた人には人物や物事をとらえる感性が違う。

そうか!この、見るからに「前途洋々」さが、単に過去を物語るだけでなく未来をも約束しているわけだ。そして人を介してまでも前途洋々さが伝わったからこそ中曽根康弘代議士をして岩見青年(当時)に「会ってみたい」と言わしめたのか。妙に納得した次第。

お話で、すばらしかったのは「失敗」や「見栄」についてなどこれから香港で活躍する若手起業家のために率直にさらけ出していただいたけたこと。ヤマをはっていた武勇伝の話はなかった。「波乱万丈でも志さえあれば皆が前途洋々」議事録から是非、『前途洋々』のヒントを何かしら感じ取っていただければ議事録担当チームとしてこれに勝る喜びはありません。

今回は香港中心の過去50年のお話が中心でしたが今度はその前の20年のお話まで聞いてみたくなりました。岩見先生本当にありがとうございます。

しかし、
70歳を越して尚、前途洋々とは・・・。
参りました。
(感想by文責 上野)

 

第34回和僑会講演会 速記録
講師:東洋警備(香港)会長 岩見武夫氏
テーマ:「波乱万丈の人生」

意欲の有る人たちの集まる和僑会でお話が出来るのは光栄に思う。
実は一度は断っていた。その理由は
「成功者と列せられて同じ場で話をする器でもないので勘弁して欲しい、最後に誰も居なくなったらその時はお話しよう。」と言って断った。
しかし、筒井会長、川副副会長から表敬の食事会を持ったときに、おふたりから
『自分たちの経験と思いを若い世代に伝えていこう。』
と言う話を聞いてジーンときた。こう言うのは頼まれてではなくて自分から伝えていかねばならない。そういう思いを持った。

1962年に初めて香港に来た。長く居るだけが取りえの70数歳だ。
2001年の香港クラブ便りで在港40年のコラムの書き出しでこう書いている。
“「香港に来てどのくらいになりますか?」といつも聞かれて
「40年になりますね。」と答えるとまず驚かれる。“それからさらに年月を重ね約半世紀になる。
どのくらいの長さかを考えてみた。
ブラジル移民が今年で100年を迎える。その半分の期間を過ごしている事になる。これは短い期間ではないなと思う。

この会の講演者は皆大会社の社長など大成功を収めた方々ばかりだが自分はいわば用心棒、寺子屋、あとはボソボソとやってきただけであるから、これからお話しする内容は海外で起業家を目指す皆さんが知りたがっている成功方程式などの役に立つ事は全く無いのをまず了解されたい。
自分はこれまで生きてきた、これからも生きていかねばならぬ、しかも異国の地、香港で。これは海外起業家の皆さんにも共通の事だが、、、。今までに感じた事、局場局場をお話しするので新しい意気込みを感じ取っていただければと思う。

今から半世紀近く前の1962年始めて香港に来た。飛行機なんかではない。今で言う“青年の船”、当時は『アジア歴訪の旅』というのに参加した。乗ったのはAPLの貨客船。
香港で手にした新聞を見て驚いた。なんとグルカ兵が新界でトラ狩をしたと言う写真つきのニュースが報道されていたからだ。恐らくはこのトラは広東から香港に越境してきたのだろう。50年前にはまだ香港にトラが居た時代だったのだ。かと思えば尖沙咀を走るタクシーはベンツだしさすが英国の植民地だけあってハイカラな趣もあった。白人も多かった。「ここは西洋か?」と疑うほどであった。
ところが泊まったYMCAではシャワーが出ない。水が出るのは水曜日と金曜日に制限されていた。香港は当時慢性的水不足でダムの取水制限が行われていた為だ。中国からの水の供給はまだ始まっていなかった。ちょうど兼松江商(現双日)が工事を始めたころだった。
香港の人たちは自由に生きている。顔が耀いているように見えた。香港のような所で住んでみたいと思った。
香港を気に入ったもう一つの理由は自分が寒いのが嫌いなため。暑さは平気なので香港は快適だった。床もベッドなので直ぐに起きられる、食事も合う。新聞も漢字で書いているので8割方は判る。日本で何が起こっているのかもこれで知る事が出来る。暮らしよい環境だったのでチャンスがあれば来てみたいと思った。
第一印象がとてもよかったのだが、起業はおろか金をどう稼ぐかは一切考えていなかった。
当時自分は代議士(中曽根元首相)の秘書になっていた。政治家志望だったのだが「5〜6年のつもりで海外生活をすれば何かの役に立つだろう。」ぐらいに考えた。26、7歳の頃だった。それがどうして未だにここにいるのか?先に述べた“長く居るのだけが取りえ”と言うのはそういう意味であります。

さて、来たはいいがどうやってメシを食っていくか?
人間探せば何かしら取りえが有るものだ。これは誰でも探せば必ずあるはずだ。
得意技で食っていければ「一芸は身を助く」と言う事になる。
自分は肉体派。レスリングと柔道をしていた。海外遠征や選手権大会での日本代表にもなっていた。高校の時に柔道をやっていたので、柔道をしながらメシを食って行こう。とりあえずそう考えた。実はそれでメシが食えるとは内心本気では思っていなかったけれど、、、。
YMCAで1年教えた。東京オリンピックの最終選考選手(レスリング)に残り帰国して試合に臨んだがオリンピック出場を賭けた試合には敗れて香港に帰ってきた。

起業家の皆さん。もし「香港は住み心地がいいな」と思ったらそれだけでここに住み、ここで仕事をする資格が有る。逆にいいと思わなかったら帰ったほうがいい。
警官やグルカ兵を相手に柔道を教え、柔道を通じて繋がりが出来てきた。このときの繋がりが後々ライセンスの取得などで役立った。1966年には太子道に25畳の道場を作った。HK$500/月の家賃だった。
弟子を取る事にした。本当は自分では「月謝はHK$20」で考えていたが、HK$5ならいいだろうと思いなおしてHK5にした。希望者は沢山集まったがHK$5の月謝すら払えない弟子入り志願者が多かった。それでも拒まずに教えていると親たちが放っとかない。日本人は鬼子とか大根野郎とか言われたものだが、親たちが鶏や豚野菜を持ってきてくれ良くしてくれるようになった。そうやって、まず現地の取っ掛かりが出来た。
とにかく政治家志望だったので食っていく為に実業家になるが、それからは政治家になるコースを考えた。自分には幸い特技もあった。
日本有数の工業高校で国鉄に入って国鉄の大学に進学しようと考えた時期があって
土木工学で有名な学校の土木工学科に在籍していたのだ。
上手いことにその頃香港に大成建設の事務所が出来、現地採用の測量技師として雇用してもらえた。何しろ当時の現地採用、朝早くから夜遅くまで働きづめだが食うには困らなくなった。その時、取っ掛かりからまた一段上がったと感じた。
生まれて初めてのサラリーマンの生活だった。上司は日本から来た25~30歳の駐在員。
そうこうするうちにオリンピックに香港から参加と言う願ってもないチャンスが到来。なんと1974年に開催されたミュンヘンオリンピックに香港柔道の監督として参加することが出来たのだ。当時、香港は英国の一部であったのだが柔道を弟子たちに教えていたところ監督として参加する事になった。一度は夢破れたオリンピックにこのような形で参加できた。感激と感動で一杯だった。そういう縁もあり、香港に対する感情は一層深まった。

気がつくと香港に住み始めて10数年がたっていた。その間に道場に通っていた弟子と結婚し子供にも恵まれた。道場と仕事(便利屋みたいなものだったが)、の毎日。これだけでいいのか?と疑問を感じはじめていた。
建築業は初めの頃は第二次世界大戦の日本の賠償問題の絡みの建築プロジェクトが多く潤っていたが、次第に仕事が減り、しまいには中東まで工事を取りにいくまでになっていた。
そのうちに中東戦争が勃発し中東が危険地域となり仕事が激減した。これら地域向けの資材集積の拠点を担っていた香港はその影響をまともに受け、大成建設の香港事務所もその例外ではなかった。しかし会社から辞めてくれとはいわない。空気を察して自ら退職を願い出た。道場を開場してから15年目、1970年末のことであった。一度日本へ帰ろうと決意した。元々自分は政治家志望だった。それに正直、望郷の念もあった。あんなに嫌だった岩手の寒さすら懐かしく思えてきた。子供も2歳になっていた。母親が香港人なので子供は日本語がしゃべれない、このままではパスポートは日本人と香港人とどっちにすれば・・・?
とはいっても貯めた金は無い、無一文で海外から日本に引き上げた。

自分は夢だけを追っていたのだ。挫折と失意と言うものを味わった。
そんな時に日本でアスリートの会に参加し師匠からの紹介でスキーの三浦雄一郎さんにお会いする機会があった。
岩見:「香港から帰ってやることも無く浪人です。」
三浦:(じっと岩見の顔を見て)悠然と「前途洋々だね。」

(この人は変わっている。セリフを言う相手を間違っているのではないか)と心底思った。そのときは全くぴんと来なかった。
言葉と言うのは後から効いてくる。
その後も失意の時、絶望の時に三浦さんから言われたこの言葉「前途洋々だね。」がささえとなった。
今から思うと三浦さんご本人もそのとき大変な時期を過ごされたに違いない。感性で判る。
三浦さんはそれからほどなく70歳でエベレストに無酸素登頂に成功する快挙を成し遂げる。
今では自信を持って言える、どんな境遇であっても「前途洋々だ」言葉の重さが今になって判った。皆さんは「前途洋々」なのだ。志さえあれば。但しコンディションはある、健康であるとか体が丈夫とか志が有るとか、、、。
お金はなかったが幸い住む家は確保できた。アジアに駐在する人が信用してくれて2年間家賃を半分で貸してくれた。野村江南台と言う根岸線の最寄り駅から歩いて20-30分東京までは2-2.5時間掛かる場所だったが。
この境遇で自分自身を奮い立たせた。ひとりじゃないんだ、家族が居る。2歳の子供と広東人の嫁、『どうやって食わせていくか?』
なりふり構わずに現在出来る事をやる、奇麗事なんか言ってられない。食べる事を考えなければならない。自分が食っていく自信はもともとあった。しかし、自分が食うのは簡単だが食わせるのは大変だ。それは企業でもそうだ。仕事の量を作らなければならない。部下はダブルペイを当たり前のように受け取るが出すほうは大変だ。
「何で食おうか?営業や英会話が出来るが…。」友人から直ぐに手伝えと言われたのが外人講師を面接して企業に派遣する仕事だった。東京に9時着だから家を6時に出なければならない。そんな仕事も2年間やった。
その後、好景気となりバブル経済のような活況を呈していた。
今だから言える話だが、有名人を介して紹介された人の用心棒を務めた。一部上場企業に友人が居て仕事も出来る。そういう人材が求められていたようだ。「月給は100万円。飲み食いのツケはこちらに回してくれ。ベンツでもロールスロイスでも会社の車だから使っていい。」と言われ、いい話だと飛びついた。
毎晩のように酒を飲み歩く生活が続いた。
その間、高邁な理想はどこかへ行ってしまいそうになった。
ビルのメンテナンス会社と言うのはビルに所属している。そのビルのオーナーにある時、
オーナー:「岩見さん景気いいね。でも、目が死んでるよ。泡を食ってるようなもんだ。
早く辞めないと大変な事になるよ。」
目が覚めた。一体自分は何をやっているのだろう?
国際親善の夢、政治家の夢は・・・。もう一度香港に帰りたいと思った。
あの世界はしゃべってならない秘密も多く一旦入ったら普通は抜けられない。そこで
「香港で柔道を広めたい」
と突拍子もない理由を打ち明けたところあっさり許してもらえたばかりでなく社長がバックアップまで申し出てくれた。むしろあきれられるほどの話であれば許してくれることがあるものだと知った。

香港に帰ると丁度香港そごうが竣工していた。あの大成建設が施工したのだが、昔仕えたことの有る部長が社長になっていた。その場でそごうのビルメンテナンスをやってくれという話になった。警備にはライセンスが必要だ。誰でも受験資格が有るわけではない。たまたま以前、上水の警察で警官や刑事に柔道を10年間教えていたことが記録に残っていて警察関係者として試験を受けさせてくれる事になった。試験には銃の取り扱いも含まれていたが、グルカ兵に柔道を教えている時に銃を触らせてくれていたのでこちらもお手のもの。目出度くライセンスを取得する事が出来た。警備会社を作ったが、この商売1件ではメシが食えるわけではない。100件、200件あって始めてメシが食える。また警備会社の仕事と言うのは毎日24時間働きづめだ。人が休んでいる間にその人がゆっくり休めるように留守番をするのが勤めだ。だから本人は休む暇が無い。正月も休めない。経営者や責任者とはこんなモンだ。

功成り名を遂げた人はよく「世の中の為になることをやった」と言う。自分だけでも大変なのに、と以前は考えていたがあるとき気がついた。そういう気持ちを持ちさえすればいいのだと。そういう気持ちがあると不思議なもので困ったとき誰かが助けてくれたりする。

香港の日本人墓地にお墓が462基ある。長谷寺の生まれだった日本領事館の佐藤さんが「日本人墓地に行く」というので同行した。40数年間誰も管理しない崖のふちにあった墓地は荒れ放題。土に埋もれて雑草がはびこっている状態になっていた。墓は1-2mの土に埋もれていただろうか。この掃除をやろうと決めて掘り起こしてきれいにした。発掘と同じ状態 と考えてたらイメージが湧くと思う。まったくのボランティアだが、人の為にはなる。そうする事で仕事に入りやすい条件が出来たりもする。

(中曽根)代議士の秘書時代、「人の為にやれ」と毎日のように言って聞かされていたが、それが知らず知らずのうちにバックボーンになっていた。日本にいた時に一時なくしかけていた事を思い出したのだ。
ホラ男爵はいいが嘘は小さくても絶対にいけない。ホラとウソの区別だがファジーなところで止まっていればいい。
自分でニンジンをぶら下げればよいのだ。貧乏して下を向いておっては何にもならん。
それぞれが持っている得意は何か?それを振り返ってみろ。
それからでもおそくはない。
究極の言葉は「あなたの人生には定年が無い」
十分時間は有る。
『鶏口となるも牛後となる勿れ』
何を意味する言葉か?起業家や経営者の皆さんには説明を要しないだろう。

日本のベースボールマガジンに、「中国香港に永住して柔道の発展に尽くしたい。香港の土になる。」と書いたことがある。骨を埋めると口で言うのは簡単だが大変な決断だが、だんだんとそういう気持ちになってくる。
香港の人もそのほうが安心感が有る。ここにずっと居る人と駐在員でいずれ日本に帰る人、どっちに安心感が有るか?だから皆さんも「何年かしたら日本に帰ります。」とは絶対に言ってはならん。心で思っていても絶対に言ってはならん。骨を埋める覚悟の人に対しては周りの協力度が違う。親近感が変わってくる。そういうものだ。

【質疑応答】
Q:中曽根元首相とはどのようにしてお知り合いになったのか?
A:自分は高名な政治家と出会うことが出来た。だが、実は接点は何も無かった。選挙区も出身地と関係ないし、学校も関係ない。自分は岩手の出身、相手は群馬の選挙区。学校も向こうは東大。
学生時代に土木を勉強していた関係で大成建設の夜勤の仕事をした。ある夜、歩いてきたアメリカ人が「ハロー」と言うので「ハロー」と応えた。暫くこのアメリカ人と英語で会話をした。そのアメリカ人は英語をしゃべる夜警は珍しいと面白がり「遊びに来い」と。遊びに行くと代々木にある一軒屋だった。後から知ったのだがこのアメリカ人はヒューイットさんと言うパンナムの大株主だった。このヒューイットさんの滞日保証人になっていたのが中曽根さんだった。ここに遊びに行ったときも自分ひとりでは嫌だったので柔道部の連中など仲間を誘った。その中にあの大鵬も混じっていた。当時は痩せていたのだが、、、。
ヒューイットさんから「就職する気はないのか?」と聞かれて「ない」と応えた。単位が取れていないのだから就職できるわけもない。結局卒業するまでそれから更に4年かかったのだが。
ヒューイットさんが「面白い学生が居る」と自分のことを中曽根代議士に話した。すると「会って見たい」と。
ヒューイットさんから「アポイントを取っといたから行きなさい。」と言われてハタと困った。学生服は質屋に入れっぱなし。靴も誰かに履かれているし行く交通費すら無い。覚悟を決めてタクシーに乗って行った。秘書に事情を話しタクシー代を払ってもらった。
中曽根代議士に合うと、いきなり「再軍備に付いてどう思うか?」と質問され面食らったが「そりゃあ、隣のウチとの境に垣を設けるようなモンでしょう。」と答えた。すると「面白い。論文を書け」と。万年筆を秘書から借りて書いていると、「字が上手い」と言ってくれた。
中曽根代議士の周りには読売新聞の渡邉 恒雄とか森喜郎とか山崎拓などがうろうろしていた。自分が今でも良かったと思っているのは時の権力に擦り寄らなかった事だ。実は、中曽根首相には困った時も何も頼んでいない。個人的な付き合いを大事にしたいと思ったからだ。しかしまさか香港柔道館40周年に来てくれるとは思わなかった。中曽根さんは香港まで自腹でお祝いに来てくれた。

Q:日系大手さんとの取引を目標に営業活動をしており、1つ1つのアポイントが勝負だと思っている。自分の気持ちの持ち上げ方、コンセントレーションをどのように高めているのか?教えて欲しい。
A:自分は競技歴が多い。自身満々と思われがちだが内心は違う。格闘技は個人競技なので、試合になると名前を呼ばれる。その時は胸が高鳴り、何か突発的なトラブルでも発生して試合が中止にならないかと思うことがある。飲むか飲まれるか、相手を恐れるが、行動を起こさねばならない。だが、実は相手もそう思っている。金メダルを取った山下(ロサンゼルスオリンピック柔道無差別級金メダリスト)だってそう思っていたそうだ。誰でもそうだと思う。もっとも猪熊(東京オリンピック柔道重量級金メダリスト)だけは別だが。ナーバスになってドキドキする、それでいい。大いに自然がいい。あなたと会うことがどれだけ大変な事か、もっと昂ぶればいい。人と会うのは大変な事、戦略も大切だが対人間は自然がいい。思った事を情熱的に語ればいい。良い結果を出そうとすればいい。そのためには基礎体力、知識は必要となる。

Q:「鶏口と為るも牛後と為る無かれ」が口癖だった私の祖父を思い出しました。祖父は足元を見られたり資金を持ち逃げされたりして大変な目に遭った。岩見先生はそういうことは無かったか?また、どのように乗り越えたか?
A:男から見栄を取ったら何も残らない。いわばやせ我慢の賜物です。騙された事は沢山ある。金額にするとマンション数戸分になるでしょう。でも、どうしたものか自分は騙したほうにも年賀状を出したりもしている。
世界的な大富豪オナシスのようになると10数年前に言われた事がある。
その当時日本では建設用に使う川の砂が不足して海の砂を洗って使うほどの品不足になっていた。
珠江を10kmほど遡った場所に江門と言う場所がありそこの採掘権を人民解放軍の幹部から何百万トンという規模で購入する事となった。USD1/トンの儲け話だ。1ドルと言うとたいしたことないようだが何せ需要が凄いので毎月凄いトン数を運ぶ。しかしスケールの大きな商売だけに思わぬ苦労もあった。
ランタオ島に置場を借りて1トン毎持ってきた。日本では横浜のノースピアに置場を借りたのだが、雨が降ると水を吸って重たくなり地盤沈下が発生し晴れて風が吹けば砂が飛んで周辺に撒き散らしてしまう。人工黄砂だよ。それで置けなくなってしまったりもした。
今度は100km上流の川砂の採掘権の話が出てきた。何百万ドルもの権利のうち半分が手付金として前金にして欲しいというのが相手側の条件だった。銀行に相談すると融資が下りた。エージェントに金を渡したのだが、ほどなく肝心の市政府に金が届いていないことが判かり、青ざめた。金を渡したエージェントに連絡を取ろうとしてもエージェントも居なくなっていた。結局金は行方不明。枝振りのいい松の木が目に入た時「こういう時、人は自殺しようとするのでは」と思ったものだ。
そのほか小さな話はいっぱいある。中には憎みきれないやつも居て年賀状を出したら向こうからも年賀状が来た。時効という意味だろうか。
所詮人と言うのはやせ我慢で見栄っ張りなのではないか。そのうちでは結構こう言うことも起こる。そういう中でバランスが取れているのだと思う。
一昨年ドロボウに入られた。警備会社の社長の家がドロボウに入られたのでは話にならん。嫁が持っていた先祖伝来の何百年のヒスイなど大切なものを盗られた。それからはキチンと管理するようにした。これもバランスだろう。

Q:多忙な中、限られた時間で付き合う相手の基準はどう決めているのか?そのポイントとタブーについて?
A:自分は頼まれたら“ノー”と言えない性質であるが飯を食うとか飲むとかはその人と居て面白いかどうかが基準になる。生理的に肌が合わないとかは大抵自然消滅するもの。精神衛生上マイナスになる人とは無理して付き合うことは無い。また体調が悪いだとかとか金もない、忙しいと言う時は相手もそれを知っているから無理やり誘われる事も無い。

Q:自分はやっているうちに色んな事をやるチャンスが出てくるといろいろな商売に手を出し収集が付かなくなることがある。選択と集中をしなければならないのだが、どうやって方向性を定めたらよいのか?
A: 小なりと言えども“なりわい“とも”本業“ともいえるものを持つべきである。色んな相手から話が出ると人間としてあれもやりたい、これもやりたい、と言う事になるのだろうが、本業のお金をつぎ込んだり無理な借金したりしてまで手を出さないこと。これを自分との約束事にしている。自分でやることを選んで銀行に話を持っていくこと。本業がグラグラしないように気をつける。他にもおいしい話は出てくるだろうが、自分の本業のファイナンスには手をつけないことだ。いい話が来たら、時間と余裕があれば手を出してもいい。その場合はその道のプロを側において相談すべきだ。家に仕事の話を持ち込まないという人が居るが自分は違う。家で仕事の話をする。妻とは実にニュートラルな存在だと思う。案外的確な判断をしたりする。本人が聞いていいと思われるものは妻もいいと思うのが多い。相談して救われたこともあった。自分は子供にも相談している。案外当を得たヒントが帰ってくるし、家庭で一体感が生まれてくる。
要はセカンドオピニオンを持つと言う事だ。

(速記 By拙速で候)

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